イノセント―1

 春眠暁を覚えずと言うが、大河内恭介(おおこうち・きょうすけ)の場合、
暁を遙かに通り越して昼近くになってもベッドを出ない自堕落な生活だ。

昨夜も午前2時まで編集者と飲んで、二日酔いで呻きながらベッドの
中で何度も寝返りを打っていた。

「先生、おはようございます。お風呂の支度ができました」

 寝室のドアがノックされ、控えめな声が告げた。声の主は先月から
大河内の秘書を務めている遠野優(とおの・すぐる)だ。

名前の通り、もの柔らかな性格の優は、我が侭で癇癪持ちの大河内を
やんわり受け止める寛容さを持っていた。
年齢は大河内より一周りも年下なのに、優といるとまるで母親に庇護
されているような錯覚を覚える。細やかな気配りで、執筆のために
ベストの環境を整えてくれる優を、大河内は雇って僅か一週間で
手放せなくなった。

「トマトジュースだけでいい」

 羽布団の中に潜ったまま大河内が言うと、優はそれ以上、
無理に起こそうとはせず「わかりました」とだけ答えて、静かに部屋を
出て行った。

 結局、大河内はそれから30分余りも経ってから、やっとキッチンに
現れた。ダイニングテーブルの椅子にドカリと腰を下ろすと、優が
用意したトマトジュースを無言で飲み干す。

「13時から、インタビューの記事に使う写真撮影のため、カメラマンの
方がいらっしゃいます。16時には、K社の田所さんが原稿を取りにみえ、
ついでに次回作の打ち合わせもしていただきます。夜19時からは
画廊のオープニング・パーティーがあります」

 優が一日のスケジュールを告げると、大河内は黙って頷いた。
しかし、ちゃんと頭に入ったかどうかはかなり怪しい。
寝起きの大河内は信用できないと、優はこの一ヶ月でしっかり学習していた。

 小一時間ほどで、大河内は風呂を使い、髭を剃り、髪を整え、写真撮影
に備えてブルーのスーツを着て書斎に現れた。机の上に散乱した資料を
整理していた優は、すぐに手を止めて大河内を執筆に集中させるべく、
軽く一礼すると仕事部屋を出て行った。

 午後12時30分、優は小さくノックすると静かに室内に滑り込んできた。
手に持ったトレーには、仕事をしながら食べられるよう一口サイズにカット
されたサンドイッチとコーヒーが載っている。それを黙ってサイドテーブルに
置くと、入ってきた時と同じように物音を立てないよう静かに出て行く。

流れるような動きは、見る者を魅了する優雅さがあったが、執筆に夢中に
なっている大河内は目もくれなかった。


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イノセント―2

「先生は、ご趣味がいいですね。品のいい子を秘書にしてみえる」

 撮影の合間、カメラマンに言われた一言で、大河内は初めて優の
容姿を意識した。そういえば野暮ったい黒縁眼鏡に邪魔されて、
優の素顔をきちんと見たことがない。

「大人しくて、気のつく子だから、助かってるよ」

 大河内がチラリと優に目をやると、優は家政婦の昌代と何やら
話し込んでいた。真横から見るせいか、黒縁眼鏡に邪魔されることなく、
優の整った横顔のラインがはっきりと見て取れる。

華やかさこそないが、優には育ちの良さを感じさせる気品があった。
顔立ちは平凡そのもので、特に目を引く美しさや存在感もない。
しかし、その平凡さが安らぎや癒しを醸し出していることに、大河内は
初めて気づいた。

 編集者の田所は、大河内の大学時代のゼミ仲間で、仕事だけ
でなく、遊びでも良き相棒だった。学生時代から好奇心旺盛で、
大抵の悪さは大河内と二人でやり尽くしていた。

 一昨年、駆け出しのファッションモデルと電撃結婚し、周りを
驚かせた。今では愛妻料理でぶくぶく太ってしまったが、昔は
ソース顔のハンサムで、醤油顔タイプの大河内と並んで歩くと、
女達は皆、目をハートにして群がったものだ。

「帆乃香に子供ができたんだ」

 開口一番、仏頂面でそう言った田所に、大河内はだから何だ
と言わんばかりに形の良い眉を寄せた。

「安定期に入るまで、寝室は別にするって言うんだ」
「そりゃ、お気の毒」

 ざまあみろと言わんばかりにせせら笑った大河内を、田所は
憎々しげに睨み付ける。

「久しぶりに二人でナンパでもするか?」

 大河内らしい不謹慎な考えに、田所は盛大な溜息をついた。

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イノセント―3

 大河内が田所を伴ってパーティーに出かけた後、優 は
書斎の掃除を始めた。

書斎には、大河内の書き散らかした大切な創作メモがあるが、
素人目にはゴミと判別がつかないため、家政婦の昌代は、
書斎の掃除を許されていないのだ。

 極力、物を動かさないよう注意しながら、優は丁寧に机周りの埃を
払い、散乱した物をあるべき場所に戻していく。
主(あるじ)に不快感や違和感を与えないで、整理整頓された快適な
空間を作り上げていくこの作業ができるのは、今は亡き大河内の母親と
優だけだった。

 優は、一通りの整頓が終わると、両足に微かな痺れを感じて
リビングのソファーに腰を下ろした。昨夜から風邪気味で体調が
良くないのだ。
倦怠感に耐えきれず、背もたれに身体を預けると、猛烈な睡魔が
襲ってきた。

 家政婦は、夕方4時に帰ったので、防音の完璧なマンションの中は
恐ろしいほど静まりかえっている。

大河内は田所と出かけると決まって午前様だ。優は、ほんの少し
眠ってから、自分のアパートに帰ろうと目を閉じた。


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イノセント―4

 大河内が、売り出し中の彫刻家のお披露目パーティーに、
出席する気になったのは、ぜひにと、画商の内田奈々衣
(うちだ・ななえ)に請われたからだ。
人気作家の大河内がパーティーに出席すれば箔がつくというわけだ。

 奈々衣は、大河内と離婚した後、父親の画廊を継いでやり手の
画商として成功していた。
別れた後も、頻繁にデートを重ねる二人に、周りの者は皆、なぜ別れる
必要があったのかと首を傾げる。
二人ともはっきりとした理由を語らないが、どちらも家庭向きの人間では
なかったというのが、友人達の憶測だ。

 パーティーの人混みの中、大河内の姿を見留めた奈々衣がシャンパ
ングラスを掲げて優雅に微笑んだ。その指先には、口紅と同色の深紅の
マニキュアが施されている。

「ありがとう、来てくれたのね。嬉しいわ」

 軽やかに歩み寄りながら、奈々衣は言った。ワインレッドのオーガンジーを
贅沢にあしらったドレスが、彼女を神秘的に見せている。

「田所も連れてきた。ほら、そこのバーに張り付いてる」
「あらあら、困った男ね」

 さして気にした風もなく鷹揚に笑うと、奈々衣は大河内を見つめた。

「どう? 優くんとは、うまくやってる?」
「ああ、いい子を紹介してくれた」
「よかった」

 心底、安堵したように奈々衣が目を細めたので、大河内は苦笑した。

「なんだか子供を案じる母親みたいだな」
「そうよ。私くし、あの子を養子にしたいと考えてるの。両親も賛成
してくれたわ。後は、あの子次第ね」

 意外な発言に、大河内は顔色を変えた。かつて奈々衣は、大河内の
子供を堕胎したことがあるのだ。

「どうしたんだ? 子供は足手まといになるから欲しくないって言ったじゃないか!?」
「恭介、怒らないで。あの子は特別なの」

「どこが特別なんだ!? あんな、何の取り柄もない平凡なガキ…どこが!?」
 こみ上げる怒りを懸命に抑えながら、大河内は震える声で詰問した。

奈々衣は、当惑した表情で大河内を見つめ、それから囁くように言った。

「いずれ、あなたにもわかるわ」


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イノセント―5

 馴染みのバーで飲み始めてすぐ、田所の携帯が鳴った。
そして妻から、つわりが酷いので早く帰ってきて欲しいと懇願され、
巨体を揺らしてあたふたと帰ってしまった。

 一人取り残された大河内は、仕方なくバーボンを一杯飲み干すと
店を出た。田所がいなくては、酔いつぶれる訳にもいかないからだ。
自宅で心置きなく飲んで、やり場のない怒りを忘れたかった。

 タクシーでマンションに戻る途中、雨が降り出した。案の定、タクシー
を降りた途端、冷たい風が吹きつけてきて、大河内は足早に
エントランスに向かった。

「恭介…」

 消え入るようなか細い声で呼ばれて振り返ると、少女が素足で
立っていた。殴られたらしい顔は、見るも無惨に赤黒く腫れ上がっている。
季節はずれのサマーセーターには、ぽつぽつと血のシミがついて、
少女は寒さに震えていた。

 3月中旬とはいえ、夜はまだ冷える。大河内は無言のまま、自分の
ジャケットを脱ぐと、少女に着せかけてやった。

優が目を覚ますと、あたりは深い闇に包まれていた。ほんの少し、
そう1時間か2時間、眠ったら帰るつもりだったが、すでに時刻は深夜に
なっているらしい。

 慌てて起き上がり、帰宅するために火の元と戸締まりを確認していると、
カチャカチヤと玄関ドアの開けられる音が聞こえた。
大河内が帰ってきたのだ。


「すみません、ソファーでうたた寝してしまって……」
「なんだ、まだ居たのか」

 優を見た大河内は、不機嫌そうに言った。しかし、萎縮する優には
それ以上関心を示さず、足早にバスルームへと向かった。

 優は居たたまれず、早く帰ろうとリビングを抜けて廊下に出た。そこで、
玄関に蹲 る少女を見つけて仰天した。少女は素足で、おまけに血だらけで、
明らかに尋常ではない。

「こんばんは、お邪魔してます」
 少女は、優を見るとふらふらと立ち上がって挨拶をした。しかし優は
言葉が出てこなかった。ただ凍り付いたようにその場に立ちつくしていた。

「優、まだ居たのか。早く帰れ、もう12時を回ってるぞ」
 
 大河内のイライラした声に我に返り、優は助けを求めるように大河内を
振り返った。だが、大河内は何一つ説明しようとはしなかった。

「千紗、そんなところで何してる。早く風呂に入れ」
「でも、あたし、足が泥だらけで……」
「馬鹿だな、そんな遠慮なんかしなくていい」

 大河内は、優しく笑うと少女を抱き上げた。白い腕が、縋り付くように
大河内の首に回される。二人が奥へと消えていくのを、優は茫然と見ていた。

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